世界を救うまであと4分 第一話「月光」

一瞬、闇が忍び寄ってきたようでゾッとした。マトモな生き物など、もう当の昔に死に絶えたはずなのに、とオレは考えながら、その暗闇の塊を凝視すると、それは黒いレトリバー犬だということがわかった。その黒い犬は、オレに気付いたかのように、プイと踵を返すと曲がり角の向こうに姿を消した。漆黒に彩られた毛の艶と、濡れた鼻の頭と、つぶらな瞳が月に反射して光っていた。
そう月!オレは月が、ただ月が見たくって、命の危険を冒してまで夜に外出した。“奴ら”がウヨウヨしているはずのこんな時間に、愚かにも外に出たのである。
どうしてこんなことになってしまったのか?オレにもよくわからない。“奴ら”に問うたところで、その問いは虚しく「うがーうがー」という声にかき消され、ぼんやりしていると次の瞬間、“奴ら”に喉笛を食いちぎられるのがオチである。“奴ら”が夜を支配し、オレが昼を支配する。これからもこんなことは続くのか?これから一体、幾夜という夜を、“奴ら”に怯えながらすごせというのか。
ああ、もう我慢できない。限界だ。オレは、どうなっても良いという捨て鉢な気持ちで外に出た。かつては、学校と呼ばれたあの場所。あの場所に、あの学校の屋上に登れば、月はもっとよく見えるかもしれない。ふと、夜に外に出たのは何年振りかと考えてみた。思い出せない。もう随分と長い間、時計やカレンダーを必要としない生活をおくってきた。
校門をくぐりぬけ、懐かしい下駄箱の前を通り過ぎ、自らの記憶と、今、現場で道順を感じ取っている五感とをすり合せ、屋上への階段を見つけ出す。そして一気に駆け上がる。息があがる。観音開きの鉄製の扉を体当たりでこじ開ける。すると、勢い余って屋上の床にゴロゴロと転がり、そして仰向けになって止まった。
眩しいぐらいの満月が輝いていた。昼間とそんなに変わりはないじゃないか。いや、さすがにそれは大袈裟だな、と思いつつつも、オレは空より放たれるその無造作な輝きを一身に受け、その輝きに心を奪われ、しばらく仰向けのまま身動きが取れないでいた。だがそれも長くは続かなかった。“奴ら”だ。
遠くから奇声とも呻き声ともつかない、まるで喉ボトケに穴が空いてヒューゼーと息が漏れるような、不穏な音と共に、その声は聞こえてきた。“奴ら”に間違えない。この棟の近くにいるはずだ。オレは足早に屋上を後にした。
もう、オレが心を通わす事が出来るような生き物は、全て死に絶えてしまったのだろうか?さっきの犬はどうだ?あの黒いレトリバー犬。あれは幻覚だろうか?いや、そんなことはない。あれは確かにそこにいた。闇に紛れても、その心の臓は黒々とした毛や赤い赤い肉や監獄の檻のようなあばら骨に守られながら、脈々と波打っていたはずだ。
やはり希望は捨てない。生き残りはオレだけではないはずだ。オレは呼びかける。まだ見ぬ誰かへ。君とオレ。“奴ら”の誰だってオレたちのことを止められない。オレたちならきっとやりとげられるはずだ。
我が名はソージ。神に見捨てられし不遇の魂。





第二話